日本インターネット映画大賞

監督賞山崎貴監督受賞インタビュー

 2005年度 日本インターネット映画大賞日本映画部門にて作品賞を受賞した「ALWAYS 三丁目の夕日」。今回この作品で監督賞も併せて受賞された山崎貴監督に受賞インタビューを行いましたので掲載します。

山崎貴監督

 ここ数年、ノスタルジーブーム、あるいは昭和30年代ブームと呼ばれるムーブメントが浸透している。町のそこかしこに"あの頃"を再現したかのような居酒屋がオープンし、当時を懐かしむ人はもちろんのこと、若者にも受けている様子である。映像の世界に目を向ければ、30年代的ホームドラマの象徴である小津安二郎映画。そのコピーのようなCMが流れ、あるいは小津映画そのものがテレビでリメークされている。なぜか? という考察は専門家に任せるとして、昨年(2005年)11月5日に公開された映画『ALWAYS 三丁目の夕日』(以下、『ALWAYS』と表記)は、おおかたの人々の予想を裏切って大ヒット、世の30年代ブームを象徴する映画となった。VFXを駆使して再現された昭和30年代の東京。あの時代のノスタルジーというフィルターを通して描かれた人間たちの悲喜劇に、人々は共感したのだ。
 監督は本作で劇場用映画3本目となる山崎貴。我が国有数のVFXスタジオ、「白組」に所属する気鋭だ。これまで氏は、『ジュブナイル』(00年)、『Returnerリターナー』(02年)という作品を手がけてきた。いずれも我が国の映画ジャンルとしてはハードルの高いSF作品、『Returner リターナー』に至っては、ハリウッド的なノンストップアクションという更に高いハードルを設けた映画である。しかし脚本はおろか、VFXまで自ら手がけたこれらの山崎作品は、その完成度に比したほどの興行成績を収めることは残念ながらできなかった。いわば知る人ぞ知る映画監督だったのである。だが今回の大ヒットで、山崎貴の名は一気にメジャーに躍り出た。しかも本年の日本アカデミー賞は、主演女優賞を除くすべての部門(12部門)で最優秀賞受賞という快挙を成し遂げたのである。
 いわば今、一番勢いのある監督、それが山崎貴なのである。本インタビューは、2006年3月11日、すなわち日本アカデミー賞の直後に行われたものである。監督は約2時間、『ALWAYS』の魅力について語ってくれた。その口跡は、時折ユーモアを交えながら実に明晰で、説得力のあるものだった。それでは前置きはこれくらいにして、本題に入ろう。
(インタビュー/構成・白石雅彦。なお文中の年号は、『ALWAYS』の作品世界を踏襲し、昭和で統一した)


Part 1 "昭和"という主題

--今回の企画は、より一般観客を巻き込もうというものだったんですか?

山崎 いや、まったく関係ないですね(笑)。単純に阿部(秀司。注1)さんの企画ですよ。『ジュブナイル』が終わった頃から「昭和をやりたい」と言っていたんですね。ただ、漠然と"昭和"だけでは映画にならないんで、そのときは逃げたんですよ。『Returner』を終わったときも「2作やったし、そろそろ付き合ってくれてもいいんじゃないか」と言われたんですが、やはり「昭和だけでは映画にならないですから、話が思いついたら言ってきて下さい」と言って、新しい企画を提出したんですよ。でもこれがなかなかハードルが高くて、僕、疲れていた時期があるんですよ。『Returner』と『ALWAYS』の間に、僕はゲームの仕事やらテレビの仕事とかをやっていて、映画からぶれて行ってやばいな、と思っていた時期でもあったんですね。そのときにまた阿部さんに呼ばれて、また「昭和がやりたいんだ」と(笑)。ロボット(注2)に、アンチカというあだ名の安藤親広さんというプロデューサーがいるんです。それで阿部さんが、「アンチカが、『三丁目の夕日』ってどうだ? って言ってるんだよ」とね。僕、いいな、と思ったんですよ。ですからそのとき「『三丁目の夕日』で描いている昭和を反映するのはいいと思いますよ」と言ったんですよ。すると阿部さん、「なっ」と言って(笑)。で、すぐに(ロボットの)映画部に電話して、「おい、親弘か、ついに山崎、昭和をやることになったぞ」。それからプロデューサーチームががワーッと集まってきてですね。「じゃあ、どうやってやろうか」と、僕自身は「やる」と言った憶えはなかったんですが、あれという間に(笑)。

注1・『ALWAYS』エグゼクティブ・プロデューサー。
注2・製作会社、代表取締役が阿部プロデューサー。

--山崎監督が企画した作品ではなかったという事実は意外です。

山崎 阿部さんに「お前は1本目も2本目もSFだから、これで3本目もSFを作ると"SFさん"になってしまうぞ。ここで一般映画を作っておけば、お前はなにを作っても、なんの企画を出しても、『ああ、山崎さんだったらできますね』と言われる監督になるから、もの凄くレンジを広げた作品を今作っておくべきだ。お前にとっての『タイタニック』を作るべきだ」と言われたんです。それで僕としてはある意味恩返しですね。1本目2本目は、阿部さんなしには作れなかった作品なんで、今回は付き合っていこうかな、と思って。逆に言うとね、僕自身としては、絶対に当たらない企画だと思っていたんで、少しでも色んなことを全部良くしていかないと、つまり総合点の高い映画にしていかないと、本当に誰も観に来ないだろう、と思ったんですよ。だからCGも頑張るし、シナリオも頑張るし、役者陣も豪華に、つまり主役を張っているような人たちを何人かお願いして、ともかく豪華にして他の昭和モノとは違う感じの作品にしていかないと駄目だろうな、と思ったんで、そこは凄く頑張りました。

--監督自身、これだけ反響を呼ぶと思っていなかった?

山崎 全然思っていなかったです。誰もこれだけ当たるとは誰も思っていなかったと思います。基本的には、四方八方から「なんでやるの?」と言われていた企画でしたから。阿部さんも、今はヒットして賞ももらったんで一安心ですが、その当時は「心配なんだよなあ」と僕に漏らしたこともありましたよ。

--大ヒットの背景には、昭和30年代ブームというのがベースにあると思うんです。

山崎 そうは言われてはいますが、当時はコアがなかった。つまりなんとかに象徴されるような昭和30年代ブームというのがスポンと抜け落ちている。小さなムーブメントでポコッとあるけれども、それを統括する全体の芯がないんで、その芯になればいいなと思って。

--映画では、その芯が東京タワー建設になってますね。それは監督のアイディアだったんですか?

山崎 映画の背骨ですよね。実はそれも阿部さんです。それは初期の頃からのアイディアでした。昭和33(1958)年に東京タワーができていたんで、「東京タワーが建っていく映画は、みんな来るぜ」と言って。でも僕は全然そうは思わなかった(苦笑)。東京タワーが伸びていく映画なんて、誰が観たいんだろう。そんなのただの工事現場ジャン、と思って(笑)。ですから「あの東京タワーが良かった」と言ってくれる人が多いんですが、実は僕にはわからない世界だったんで(笑)。

--東京タワーの建設は、映画の中の時間経過としても効果的でした。実は『ALWAYS』が大ヒットするかもしれない、と思ったのは、地元の飲み屋で、私よりちょっと年上の小母ちゃんたちが、「今度、東京タワーが出来上がっていく映画があるんだって、観たいよね!」と話しているのを聞いたときなんです。それから話題は、昭和30年代、40年代初期の話で盛り上がっていったんですが、正直、あまり映画なんか観てないだろうという方たちが日本映画の話題をしている。これはひょっとすると、と思ったんです。

山崎 僕もそう思います。関係者の方々が言っているんじゃない言葉というのは大切ですね。

--この世界感を描くに当たって、自分の狙いをどこに置こうと思いました?

山崎 ベタな人情劇というか、団塊の人たちが観て違和感を感じないような作劇と演出を心がけました。まあその段階の前に、しょせん僕の映画は誰も観に来てくれない映画なんで(苦笑)。せめて団塊の世代の人たちが、懐かしいな、とうっかり観てくれないかな、と思ったんですよ(笑)。ですから完全にターゲット狙いで、斜に構えない演出ですね。だから業界をうならせる演出だとかとは、真逆の方、真逆の方にチューニングしていったという感じです。

--でも演出タッチには、現代的な感覚がありましたよ。

山崎 それは僕が監督したから出て来てしまったものだと思いますね。僕の中では、思いっきりオールドファッションの演出をしようと心がけてはいたんですけれども、当然、観てきた映画とか、世代の違いとかでそれはやりきれないわけですよ。で、また阿部さんが、「そんなお前、巨匠がやったらただのなつかし映画になるだろう。山崎がやるから変な映画になるんだろう。そこが新しいんだよ」と最初の頃に言っていたんですよ。それが上手く出たんじゃないですかね。

--監督、お生まれは?

山崎 39年ですね。東京オリンピック年生まれです。

--僕は36年で『モスラ』年生まれですから、厳密な33年というのはわからないんですが、田舎に住んでいましたから、40年代まであんな感じでしたね。

山崎 そうでしたね。僕も松本生まれなんで、まったくあの通りではないですけれども、ちょっと臭いみたいなものは延長線上でつながってはいましたよね。ですからまったく知らない世界、未来とは違いますけれども、でもまあ、基本的にはリアルタイムではなかったんで、よくわからなかった部分も多いですよ。

--狙ったのか、世代的のものかはよくわかりませんけれども、リアリズムでは決してなく、ノスタルジーで押した世界感に共感を持てました。

山崎 それは記憶の再現なんですよ。多分、リアリズムでやると(昭和33年は)戦後13年だから看板とかも、映画よりもっと新しかったと思うんです。ですがそれは資料としての昭和33年で、それを再現しても、誰も懐かしい、とは言わないと思います。なぜかというと、人というのは、33年からあるといわれているものを、今、現在の目で見ているからなんです。33年の世界の汚れ方とか、古さだとか、そういうのをリファレンスにして頭の中で再構築しているんですよ。だからある程度、汚しとか汚さとか、そういったものを出していかないと、懐かしいと感じないんです。記憶というのは、実は何度も書き換えられていて、当時のものをそのまま覚えている人というのは、あんまりいないんですね。だから理屈で攻めていっても、圧倒的多数の人に、懐かしいね、と言わせることができない。自分の子供の頃を思い出して、例えば大好きだったガラガラがあるとするじゃないですか。そういうのをちょっと思い出してみて、で、そのガラガラ、凄いピカピカ? それとも汚れている? って言われると、少しベコベコしたりだとか汚れているんですよ。ですからその記憶のリファレンスシステムをちゃんと構築してやれば、人が懐かしいという思いと直結できるはずだし、それをやらないと理屈では合っているけれども、ただ理屈に合っているだけのものになってしまう。だからそこは凄く意識したわけですよね。

--それが成功したひとつの要因だと思います。

山崎 そうですね。そのさじ加減が凄く難しかったんですけれども。例えばミゼット、オート3輪が出て来ますよね。あれはコレクターから借りてきたもので、本当はピッカピカなんです。それを美術部が剥がせる塗料で汚しをかけて。ただ映画に出て来たタイプのミゼットの発売は昭和34年なんですよ。

--その前のタイプというのは?

山崎 バイクに荷台が付いているタイプのやつですから、全然違うんです。

--それは現物が見つからなかったからとか?

山崎 いえ、狙いです。あのオート3輪というのは、僕の中で昭和30年代のアイコンなんですよ。あれを見た瞬間にかなりの人たち、実際に当時を知らない人たちが、昭和30年代にポンと行きやすいアイテムになっているんで、じゃあ、ここはあえて使おうと。


Part 2 脚本虎の穴

--脚本の話をうかがいたいんですが、前2作同様、今回も監督が係わられています。

山崎 共作の古沢良太君は、僕が『ALWAYS』の前にやったテレビ番組、『動物のお医者さん』のライターです。若手で、感性が合うというか、ギャグのセンスにしても僕と近い。しかも昔漫画家になろうとしていたんで、自分で絵も描くんですよね。その絵が凄く『三丁目の夕日』の世界なんですよ。ひょっとしたら好きじゃないかな? と思って彼を呼んでもらったんです。そこで最初、僕が原作からエピソードを選んで、ロングプロットを書いて彼に渡したんです。まあ正直、今回ホン(脚本)作りは投げちゃおう、と思って(笑)。でも書いてもらったら凄く面白かったんですよね。そうなると欲が出て「僕も参加します」って(笑)。それまで腰が引けていたのを、もうちょっと前のめりになったわけですよ(笑)。それでそのとき、ヒットはしないだろうけれども、面白い映画にはなるな、思ったんですね。
 映画というのは3段階の大きな壁があるんですよ。最初は映画が成立すること。実はこれは凄いことで、もしかしたらこの3段のハードルの中で一番高い。今回は、阿部さんが凄く馬力がある方なんで立ち上がったと言ってもいいです。その次に良い映画ができる、という壁。まあ、良い映画というのは人によって色々な基準がありますが、色んな映画がこの時点で討ち死にしています。その次の段階でいよいよ大ヒットという壁がある。この3つの壁のうち、2番目の段階まで行けば僕の仕事は終わりなんですよね。つまり僕は監督であって、プロデューサーではないですから。個人的な思いとしては、3段目まで登りたい、というのはありますよ。まあ、2段目はクリアできる映画はできるかな、とそのときに思ったんですね。

--かなり直しが入りましたか? 『Returner』のときもかなり直されたとか。

山崎 今回もしょっちゅう直しをやりましたね。人間関係の直しとか、役者要請で直したり、というのもありました。つまりキャスティングでこの人とこの人になったんで、その関係だったらこう直した方がいいんじゃないか、とか。それにプロデューサーの方たちの意見もいっぱい出て来まして。例えば最初、則文さん(注1)は、原作通り優しい人だったんですよ。おとなしいお父さんで、お母さんがしっかりしているという。そうしたら安藤プロデューサーが、「昔、寺内貫太郎(注2)みたいなお父さんって怖かったから、彼のようにしようよ」とアイディアを出したんですね。それで僕もノリノリになって「じゃあ、暴れるお父さん書きます」と(笑)。まあ、反対意見もあったんですが、結果的に堤さんの芝居が良くて、僕自身としては成功したと思っています。
 ともかくホン打ち(注3)が凄いんですよ。ホンを書いてプロデューサーに見せるわけですが、ホン打ち虎の穴、って感じで(笑)。基本的に5、6人プロデューサーがいるんですが、『踊る大捜査線』シリーズとか、大ヒット作を生んだ方々ですからね。まあ優しいプロデューサーの方たちなんですけれども、脚本打ち合わせに行くと、重たい雰囲気が漂っているんですよ。自分では結構良いのができたな、と思っているから、まずそこからほめられるのかな? と思っていると、ダン、と机叩いて「どうしようか? これ」って(笑)。この頁のここが良くなくて、ここが良くなくて、じゃなくて、「プロットのときは、成り立つと思ったんだよねえ」。もうダメ出し以前ですよ。根本的な否定みたいな感じ(笑)。それに僕が直すと、かなり直さなければいけなくなる。半分書き直すとか。ですから大変でした。まあ、わからなくなったら古沢君に押しつけたりしたんですけれども(笑)。

注1・鈴木オート社長。演・堤真一。
注2・昭和49年1月16日から、TBS系で放送されたアンチ・ホームドラマ。作曲家の小林亜星が、手の早いガンコ親父を演じた。
注3・脚本打ち合わせ。

--まあ、ある程度プロデューサーの了解が出れば、あとは監督に仕切り如何で。

山崎 そうですね。そこは最近明解になってきていて、現場ではほとんど口出しされていません。それはプロデューサーがポリシーを持っているみたいです。シナリオのときに徹底的に叩きのめしておいて、出来上がってきたホンに対しては、現場でそんなに色んなことは言わない、という。ただ阿部さんは、30年代スーパーバイザーとして--別にそんな肩書きは付いていないんですけれども--現場についてもらいました。つまりスタッフがみんな若くて、30年代を知っている人が結果的に阿部さんしかいなかったんですよ。


Part 3 顔になるカットとは?

--昭和は遠くなりにけり、ですね。

山崎 そうですね。現場で一番年上がカメラマンの柴崎幸三さんなんですが、33年生まれなんですよ。だから物心付いたときには33年じゃなくなっているし、照明の水野研一さんがもう少し年上なのかな? でも阿部さんが唯一33年の生き証人なんですね。

--そうした状況で昭和30年代を再現しようといっても、それは大変なことですよね。

山崎 不可能に近いです。多分、もうこんなことをやる人はいないんじゃなかと。元々僕はCG出身で、特殊な状況だったからできたんです。

--『Returner』から2年経つんですが、CGに関していえば、その間の技術的進歩はめざましいものがあります。

山崎 コンピューターの性能が上がりましたからね。ですから当時、やればできるけれども実用化できないというCGもできるようになったとかね。一番大きいのはレンダリング・スピードですね。今まで論文レベルだった計算方法が、結構日常的に使えるようになってきていますね。ただ今回は、CGで作るカットが非常に多かったし、CGが嫌いな人にもお送りしなければいけなかったんで、CGだけど面白いね、という言い訳は多分通用しなかったですよね。でも基本的にはCGを"売り"にするとは思ったんで、そのときに、CGを倒してやる! と思っている人たち向けにCGを作らなければいけないという、非常にハードルの高い作品だったんです。

--路地から横移動で大通りに出ると、路面電車が走っている街並みをいっきに見せるがありますが、そういう意味で言っても非常に完成度が高いと思います。

山崎 映画の顔になるカットなんですよ。あのカットが白けちゃうと、ガッカリしたところからスタートしちゃうことになるでしょう。あそこでCG嫌いのおじさんおばさんの頭をガーンと一発やっておかないと駄目なカットなんですよ。あのカットは、白組史上一番お金のかかったカットだと思います。結構の人数のスタッフが3ヶ月くらいやってましたからね。多分、ハリウッド映画のCGのカットって、こうやって作るんだろうな、って思うくらい、沢山の人数が分業して凄い時間をかけて作っていたんですよ。

--最初は子供目線の横移動で、大通りに出ると俯瞰になる瞬間が、非常にゾクゾクしました。

山崎 子供視点でずっとお話を進めていって、日常レベルからそのまま外に出ていくカメラワークですよね。あそこで多分、タイムトラベルができるんですね。成功しているかどうかわからないですけれども、僕たちの気分としては、頑張ってスタジオで作りました、ではなくて、普通に機材を持って昭和33年に行って撮ってきた、ということです。ですからロケで撮影するんだから、大通りに出たらクレーンで上げるだろう、と。日常視点から始まって、クレーンで街の風景が見えれば、「ああ、こういう街なんだね」とわかる。『ALWAYS 三丁目の夕日』が、他の昭和30年代ものの映画と圧倒的に違うのは、カメラがどこまでも行けるという錯覚を与えることができることですね。あの画があることによって、ずっと三丁目の中の画が続いていても、これは必要があって中の画なんだ、必要があればバンバン外に出られるし、30年代の東京があるんだから、ロケなんだからどこに行っても撮れるんだけど、行く必要がないからここで撮っているんだよ、と。映画にはビッグショットといって、風景を一気に見せるカットがありますよね。昔の『帝都物語』(53年、注)は、銀座の大オープンセットを組んで見せていました。だけど今までの映画の中でのビッグショットの役割というには、こういう時代ですよ、という意味でしかなかったんですよ。ただ今回のカットは、子供たちが普通に走ってきてカメラが一気に外まで出て行ければ、僕たちはなにか制約があって撮っているんじゃないですよ、と観客に勘違いしてもらうことができる。こんなことはお茶の子さいさいで撮れますよ、というふうに潜在意識に働きかけることができるんですね。だからカメラの置く場所の制約を感じさせないで映画を観ることができる、というか、普通の日常的な映画を観るのと同じ感覚で観られるように、潜在意識に先ず一発ドカーンと打ち込んでおくためにはあれが必要だったんです。

注・昭和初期の銀座を、日本映画としては空前のオープンセットで再現し、当時話題となった。

--最後の俯瞰は、節度のある高さですね。

山崎 そうそう、あれでグワーンとどこまでも高く行っちゃうとCGになっちゃうんです(笑)。
 だから凄く嬉しかったのは、東宝で最後のチェック上映しているときに、ある方が「今、広島だったらこういう画が撮れるのよね」と言ったとか、ロケコーディネーターの方が「おい、こんな所どこにあるんだ」って言ったといいますね。一番おかしかったのは、なにかの打ち上げパーティか、だったかな? 応援で来ていた美術の人が、現場の大道具班長に「あのセットは随分頑張っちゃったね」と言ってたんです。それで班長も「まあね、あれは…」となんて言っていいんだかわからない対応をしているのを見たときに、これは大丈夫だと確信しました。

--それにもうひとつ、路地から外に出るカットは、物語的に実に深い意味があると思うんです。子供たちのテリトリーって、あっちの駄菓子屋からこっちの駄菓子屋みたいなところがありますが、母親探しのところでそのテリトリーから出ていく。そのときにまた路面電車が出てくる。

山崎 そうですね。三丁目というのは、基本的にはいい人たちのいる世界ですから、あれは魔界への大冒険ですよね。三丁目とは違う大人がいる世界。だから劇中であの場所は、一応高円寺と言っていますけれども、高円寺でもなんでもないんですよ。つまり子供たちの地獄巡りですよね。川のところで雨が降っていて、一平と淳之介(注)が喧嘩しているところでも、高円寺にあんなところがあるわけないんだけれども、地獄巡りということで、この世のものとは思えないような風景に雨を足したんです。子供たちのイメージの怖い世界にしたんですよ。だから、自分たちが守られる世界から、一回知らない国まで冒険をしに行って、お母さんのお守りで命からがら戻ってきた、という話なんです、あそこは。

注・鈴木一平(演・小清水一揮)。古行淳之介(演・須賀健太)。

--ですからそこに見事につながっていくのが、あの移動から俯瞰のカットだと思ったんですよね。

山崎 いや、そこまでは意識していませんでした。でも都電をあそこで売っておいたから、そのあとで色んなことができたわけですから、確かに潜在意識的には役に立っていると思います。


Part 4 阿部プロデューサーのこだわり

--電車つながりで、また技術的な質問になりますが、『ALWAYS』も、過去の監督作品同様、CGだけではなくて、上野駅をテーブルサイズのミニチュアで組んだり、機関車(C-62)も実はミニチュアだったりとか、CGとコラージュすることで緻密な表現をされています。

山崎 機関車に関して言えばですね。要するにディテールが沢山あるから、単純に作るだけでも大変だったんですよ。だから、どうしようかな? と思っていたんですが、ライブスチームってやつがあるじゃないですか。人が乗れる自走の機関車のミニチュアですね。あれのC-62があったら、でかいミニチュアを借りれば一番早いな、と思ったんですよ。もちろんでかければでかいほどいいしね。それで調べてみたらそんなに大きくないけれどもあったんですよ。それでプロデューサーが作った人に連絡を取って借りてきたんです。だから本当に経済的な理由もありますね。ミニチュアを作るのは予算的に結構しんどいし、かといって、CGでやれ、と言っても、CG班も手一杯だしね。それが映画にいっぱい出てくるんならいいんですが、ワンカットだけでしょう。コストパフォーマンスが悪すぎますよね。でもねえ、あのC-62がCGくさかった、と言っている人もいるんですよ(笑)。確かに煙はCGですが、橋も実写だしね。車を責めている人もいました。オープニングの車のテラテラ感はもろCGだと…。でもあれも実写なんです(笑)。それはひじょうに少数の人だと思いますけれども、基本的にCGをけなす人っていますから。

--集団就職の列車が上野駅に入ってくるカットは?

山崎 本物のC-62です。あのカットは滅茶苦茶金がかかってますよ。京都の梅小路という機関庫にC-62があって、鉄道オタク的に言うと動体というんですが、日本中で動体で保存されているのはここしかないんですよ。ただここは駅がないんです。通常の日本映画だと、大井川鉄道とかに行って、動くSLがホームに入ってくるのを撮って、そこで役者の芝居なんかも撮ってしまうんですけれども、これまた阿部さんが、もの凄い鉄道オタクでしてね。C-62が上野に入ってくる、というのを凄くこだわっていたんですよ。それでC-62を九州の門司港駅(注)まで引っ張っていって、そこで撮るというプランが進んでいたんですよ。でも機関車の移動に大体3000万くらいかかって、しかもあれって車検があるんですね。梅小路機関区の中で走る分には問題はないですよ。あそこは私有地ですから。でもそれを九州まで行くためには自分で走って行かなきゃいけない。それで列車を九州まで引っ張っていくプロジェクトだけでも1億円くらいかかってしまいそうになってきた。それに門司港駅に行ってみても、ただレトロなだけで、別に上野駅と似ているというわけじゃないんですよ。それで困ってしまってね。

--JR山口線にC-57があります。予算的なことを考えれば、C-62の代わりにC-57を門司港駅まで引っ張ってこようか、と考えがちですが。

山崎 山口線も含めて検討していたのですが、とにかくC-62じゃないと言う感じになっていました。でも阿部さんはC-62にこだわっていまして、他のプロデューサーとやり合っているんですよ。「鉄道オタクはな、C-57が上野に入ってこないのをわかるんだ」「日本中に鉄道オタクは何人いるんですか、その人たちが全員観に来てくれる保証があるんですか。他にお金を掛けるところはいっぱいあるのに」って。でも阿部さんは引かないんですね。それを見て僕は、これは駄目だ、このこだわり方は多分、阿部さんはこの映画がなくなっても、C-62だけは守るくらいのことはしかねない凄く重要なポイントだから、これは絶対外せないな、と思ったんです。じゃあ、梅小路機関庫に駅を作ろうか、と。で、予算管理をしているライン・プロデューサーが--彼はずっと僕と一緒に映画を作っているんで、考え方、ポリシーというのはお互いに似通ったものを持っているんだけれども--流石にこのときは「えっ! 駅!!」と言って絶句です。まあカットを工夫して、ホームと柱があって、人が出る部分だけをフォローしてくれれば、あとはCGとかで僕がなんとかしますから、と言ったんですが、試算したら結構な金額になっちゃったんですよ。というのも美術さん、大道具さんを現地に送らなきゃいけない、それに機関区もそういうのを作るようにはできていないんで、重機を入れるのも一苦労みたいな感じだったんですが、阿部さんは折れるわけないから、やるしかないよね、と。

注・大正3(1914)年に建造された駅舎が現存している。

--よく機関庫が協力してくれましたね。

山崎 そうですね。まあ、基本的には博物館なんで、そこに駅を作っても大変なことは起きないんですが、色んな人が一生懸命協力をしてくれたんで感謝しています。

--その甲斐があったというか、鉄道オタクの方の評判は大変にいいみたいです。「ちゃんと上野駅にC-62が入ってきた!」と。それに当時、集団就職のことを知る人が観たら、あの列車が入ってくるカットは、あのまんまだった、と。

山崎 そうなんですか。でも当時の記録フィルムを観たら、みんなあのアングルなんですよね。ですから基本的な画なんです。


Part 5 山崎監督作品としての『ALWAYS 三丁目の夕日』

--そうした様々なご苦労があって、作品は大ヒットしたわけなんですが、今、『ALWAYS 三丁目の夕日』を振り返ってみていかがですか?

山崎 そうですね。実は悩んだ部分とか、失敗している部分も結構あるんです。例えば集団就職で六ちゃん(注)が東京に来るでしょう。

注・星野六子(演・堀北真希)

--リンゴほっぺでワクワクしたような顔。あれもノスタルジーを感じましたが。

山崎 本当のことを言うと、集団就職の人たちの顔ってみんな暗い顔をしているんですよ。自分の中の比重でいうと、ワクワクよりは不安の方が大きいんですね。

--それはわかります。

山崎 ですからあの顔でよかったか? というのはいまだに僕の中に疑問点としては残っているんですよ。話の流れ上、彼女は凄い会社に就職するという前提で来ているんでニコニコしていていいんですけれども、他の子たちも、修学旅行みたいにはしゃいでいるじゃないですか。あれはちょっと失敗だったかな、とも思っているんですよね。微妙な感じですね。

--あの頃、東京に出てくるということは、今でいったら日本からひとりでニューヨークに行くような感覚だと思うんですよね。

山崎 しかもその場所の学校に行って勉強をしようとするんじゃなくて、これから仕事を始めようというんですから孤独ですよ、みんな。当時の資料映像を見ると基本的には、みんな凄く緊張して緊張しすぎて無表情になってますね。

--六ちゃん、青森の出身でしたっけ?

山崎 そうです。

--当時だったら帰るのに10時間以上かかりますね。

山崎 だから31日の夕方に出かけていったら、しょせん正月には間に合わない(笑)。大体大晦日に、列車の中があんなにすいているわけがない(一同爆笑)。それは感じていたんですけれども、「よいお年を」と言われた六ちゃんの後ろで、沢山の人が立っていたら画的になんとなくね(笑)。そういうミスはいっぱいあるんですよ。そういうのでいうと8月20日設定で、「お盆には帰らなくていいのか!」という台詞がありますね。だって東京は旧だから7月15日ですらなくて7月中旬ですよね。

--東北は8月13日が迎え盆で、16日が送り盆でしたよ。

山崎 いずれにしろもう過ぎてるよ、ッて(笑)。車が右側通行しているところもありますし。六ちゃんが上京してくるところで、窓から見えている車が右側通行しているんです。あとはなんだったかなあ? 色んな人に指摘されるんで、DVDのオーディオコメンタリーでは全部ばらそうかと思っています。「すみませんでした?」って(笑)。

--それに映画ファンの立場から言わせてもらえば、最初、昔懐かしい東宝スコープで始まったら、実はテレビ時代の幕開けを描いた映画でもありました。

山崎 そうなんですよ(笑)。ビバテレビ! みたいな映画ですからね。ですから映画好きに言わせると、あんなテレビがのしてくる時代の映画を作りやがって!なんて言う人もいましたよ(笑)。昭和33年というのは、邦画のピークで、テレビが切り替わっていく最初の年ですね。
 あと映画館でみんなで映画を観て盛り上がっているところがなかった、と言う人も多いですね。あの映画で見たかったのは、銭湯と映画館、それは外すべきアイテムじゃなかったんじゃないか、という意見が聞かれましたね。とはいえ全部が全部、入れられるわけはありませんからね。

--日本アカデミー賞での監督のコメントで、凄く感動した言葉があるんですね。それはラストの夕日のところ、グリーンバックで撮るしかないか、と思ったら、映画の神様のおかげで撮れたというところです。

山崎 その発言のあと、吉永(小百合、注)さんが「私たちの作品には映画の神様が」と引用してくれたのがすごく嬉しかったんです。

注・『北の零年』で、最優秀主演女優賞を受賞。『ALWAYS』が最優秀賞を逃したのは、この部門のみ。

--しかも印象としては、皆、山崎監督だからCGとかで処理をしているんだろう、と思ったら、ちゃんと夕日を待っていたんだ、と認識させたことは本当によかったと思いますよ。

山崎 あれは劇中で鈴木親子が、50年後の夕日の話をしているんですけれども、話の時期から考えると、実際に50年後の夕日ですからね。まさに彼らが言っていた夕日で、まだ綺麗なんです。この映画は、この先、俺たちはどうなのか? というのを投射する映画でしたからね。

--『ジュブナイル』から変わらないビジョンがありますね。ラストで子供たちにパッと切り替わるショットとか。

山崎 そうですね。実は過去を描くのも未来を描くのも、ひじょうに似ている作業なんです。現代を軸にして過去を描こうとしても、未来を描こうとしてもやることはわりと近い。資料を調べて、どうなっているのかな? というのを推考して、その映像をCGとかセットとかできる限りの手を使って再現するというのは近い作業ですよね。その意味では『ジュブナイル』となんら変わってないといえます。

--それにクライマックスで、茶川先生(注1)のところに、淳之介が帰ってくるでしょう。監督の映画は、3作とも帰ってくる映画なんですね。『ジュブナイル』でテトラが帰っていく。『Returner』でもミリ(注2)が帰ってくる。

注1・茶川竜之介(演・吉岡秀隆)
注2・ミリ(演・鈴木杏)

山崎 『Returner』は途中ですけれどもね。でもああ、そうか、言われてみればそうですね。そういう指摘は初めて受けました。

--ですから『ALWAYS 三丁目の夕日』も、紛うことなき山崎貴監督作品だと思います。次の作品も期待しています。今日はどうも有り難うございました。

(下北沢にて)

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